ナツメの秋
今年、異例の人気(鳥たちに)だった定点付近のナツメが黄葉。いつもはこの時期まだ残っている実も、今年は、ほとんどない。
ここ数年、占星術を少し知っていると、「時代が変わる」「風の時代」というキーワードに何度も出くわしていると思う。
正直なところ、まったく時代の変化に追いつけていない。
もし何回目かのインパクトがあったら、滅びるほうに入るのではないか、と、腹をくくれないまま、気分が落ち込んでいた。
何かの賞を受賞された博士だったと思うが(広中平祐氏だったか?)、
…いいことを教えましょう。(ここにご高名が入る)は、人一倍の努力家です…
と、テレビのインタビューで、最後にニヤリとおっしゃった。今もそのニヤリだけは、チェシャ猫のように、笑いだけが、私の中に残っている。
つまり、天才ではないから、努力すればだれでも可能性はある、とおっしゃりたかったのであろう。
ところがだ。
努力できる才能というものが、存在するのである。
言い換えれば、ある種の才能がなければ、努力はできない。
たいていは飽きる。倦む。
努力とは、そういう種類のものだ。
或いは天才よりも得難いことなのではないかとさえ思える。引退を表明した野球選手の高校時代をご存知のコーチ(監督?)が、「あのぐらいの原石なら今もそこらじゅうにごろごろしている」とおっしゃった。つまり稀有だったのは努力する才能のほうだったのだろう。
昨今、分野によっては、努力の過程を、すっとばして先へ行ける技術ができている。
以前、遺伝子組み換えの作物はすぐに「かえる」、つまり改良部分がもとにもどるが、何代もかけて交配した作物の改良は残ると聞いたことがある。前世紀の話なので、いまもそうかはわからないが。
努力するもしないも勝手だし、プロ並みにできる技術もあるから、使いこなして先へ行けるかが問題として認識されるのかもしれない。
過程をとばしてプロ並みに何かができたとしても、たぶん私はそこで立ちもとおる時間が必要になるだろうと思う。いきなり、できてしまったことに目が慣れるのに、いちいち時間がかかるだろう、と思うのだ。
さて、器用さを欠くこの性格で、どこかの漫画にあった言い方だと「弱者の自分を乗りこなす」だが、もっと実感があるのは「愚者で弱者の自分を乗りこなす」、次の時代を生きねばならない。〔文責・きか〕
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