プーシャン家の日常

つぼマニア兼脉オタクと、医学史中心中国学マニアの生活感なさすぎな日々

ご高著拝受。

2016.07.23 19:32:19


佐藤裕亮『鷗外の漢詩と軍医・横川唐陽』(2016年6月30日発行、論創社)、筆者佐藤先生よりお送りいただきました。有難うございます。

序章 横川唐陽とは誰ぞ
第一章 明治漢詩の世界へ
第二章 横川唐陽の前半生
第三章 日露戦争における横川唐陽
終章 唐陽の足跡を辿って
附論
あとがき
年表
 
「…明治漢詩壇における中心的な人物の一人で、当時、詩人としての名声をほしいままにした森槐南でさえ、いまだ十分に研究がすすめられていない状況のなかで、その門下にあって兼業の漢詩人として生きた横川唐陽の軌跡を追いかけようなどということは、少なくとも近代文学の専門家ではない筆者にとっては、夢想だにしないことであった。」〔序章、p8〕
と、本来は中国魏晋南北朝の仏教の研究者である筆者は記すが、結果的には明治の漢詩壇という、未開の分野に果敢に照明をあてる意欲作となっている。

キイワードとしては「兼業の漢詩人」がそれにあたろうか。あくまで個人の足跡を丁寧にたどり、漢詩とのかかわりを描いたことが、ともすれば複雑になりがちな内容をすっきりとまとめるのに役立っている。また、文章がおだやかで過不足なく記されており、格調たかくしあがっていることを申し添えておきたい。



佐藤氏は、私の広義の教え子のお一人である。私が大正大学で「アジア文化論」という講義をしていたころ、学友の一人とともに、授業が終わるとよく質問や雑談をしに来られており、私が大正大学を辞してのちも折に触れて連絡をとりあっていた。大正大学には宮澤正順先生のご紹介によってうかがっていたのだが、宮澤先生は私を「友達なんですよ」とご紹介くださっていた。その言葉を借りれば、この若き「友人」の一冊を、7月初め、おそらく出版されてすぐにお送りいただいて手にした私の感想は、まさに「よろこばしく、たのしい」ものであった。

すぐにもここに記そうとしたにも関わらず、今になってしまったのは、多く個人的な理由による。ひとことでいうと、なにか因縁めいたものを感じ、冷静に紹介できないのではないかと思ったのである。

まず、佐藤氏のご高著が届いたのは、鷗外が館長をつとめた「帝室博物館」についてネットで調べていたちょうどその時であった。

森鷗外のご子孫にあたる森富先生に、魯迅についての探索中に、東北大学名誉教授(医学部第一解剖学)石井敏弘先生を介してであるが、鷗外の解剖学について、教えを受けた。そこでひそかに鷗外に親近感をいだいていたということがある。のちに知ったのだが、お教えを頂戴した翌年に森富先生は鬼籍に入られている。
 
また一つには、祖父が山形県・酒井藩の今でいえば「漢文講師」であったことがある。藩の学問所を「文會堂」といったが、そこに勤務して漢詩も作っていた。のち土屋竹雨に師事したことから、祖父にあてられた手紙も何通か残っている。祖父は、当地出身の藤沢周平と面会したことがあり、父の話によれば、小説家を「インテリ」と評していたという。祖父が藤沢周平に「漢詩を教えた男」かというとそうではないであろうが、漢詩に関する話はしていたかもしれない。そこで、祖父がオーバーラップしたということがある。

私は祖父と会ったことがないが、親類にいわゆる「二度見」されたことがあるほど、似ているという。生前、祖母が私に語った祖父の面影は「リアル明治の漢詩人」であるが、明治の知識人とは、東北の片田舎に一生を終えた無名の者であったとしても、それなりの知識の厚みを持ち、漢文もを読み短歌をよみ俳句もひねっていたというその生活の中に、漢詩もあった。

朝鮮の休戦説の伝わればこの国の株価もろく崩るる(『昭和万葉集』所収)
  
果たして、佐藤氏のご高著から話がそれてきた。

明治を語るのに、私ぐらいの年齢までは個的な背景が強すぎると思う。より若い世代による明治の掘り起こしと再評価が必要で、本書はその一つの答えである。中国に「石を投げて玉を引きよせる」という言葉があるが、本書という「玉」から、さらなる「玉」へとつながることを期待する。〔文責・きか〕

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無題

全然覚えられません。助けて下さい。

TMPU 2016/07/26(Tue)03:29:08 編集

無題

おい

蛇口 2016/07/26(Tue)10:31:03 編集

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