プーシャン家の日常

つぼマニア兼脉オタクと、医学史中心中国学マニアの生活感なさすぎな日々

春は名のみだったり名実ともにだったり

2026.02.21 18:30:11


2月17日、定点付近と言っていいのか…同じ大学の敷地の南側。ずっと工事中だったが、それも終了してウメが咲いていた。

同じあたり、三本並んだのは、見えにくいが赤い花をつけたツバキ。
昨年秋までは、ばんて部員本人と散歩コースだったのにな。今は部員本人の体調が整わずに、部員(介)一人で歩くことが多い。

ちょっと時間を間違えて、駅で30分待たねばならないとなった日があり、空いている書店で、連続して買っている漫画の新刊を買って読んだ。その中に「人は労わられると屈辱を感じるものなので」というセリフがある。「はい。誰だって助けられるよりは助ける側にいたいんです」

…そういうものかな。助けてもらうとうれしいのでは?
…でもないか。

病院というところ。
たとえば入院患者(部員本人)に着替えを持って行って、インタフォンで看護師さんを呼び出して部員に渡してもらって、その帰りにエレベーターを待っている時など、車椅子の入院患者さんが、「降りる」ボタンを押してくださったり、するのである。患者だってそれぐらいはできる。だがそのぐらいでも常日頃、労わられてやってもらっている立場におかれると、なんでも自分でやってきた人・なんでも誰かにやってあげてきた人(かな?)は、なにか誰かにやってあげたくなるのかもしれない。助けてあげたくなるのかもしれない。

かと思うと、まったく見も知らない人だが「お父さん!お母さんが困ってるじゃないの!病気じゃないからって何でも問題なくできるとは限らないのよ!それなりに労力が要るの!やってもらう側なのに何?その態度!!」と、割って入りたくなるような(実際には口に出していません)患者様(ここは「様」)に出くわすことも、ある。知らない人にここまで言いたくなるこちらも相応にゆがんでいるのだろうが、身体がツライと、どうしても自分のことだけで精一杯になりがちだ。そこを「それは病気がさせているのだから、と思う」のだとある鍼灸師の方がいっておられた(3年前に故人となられた)のを思い出す。
…そういう、人を許せるようなところがないと、治療師は無理だな、とつくづく思う。

治療師といえば、ほんらい一項たてて語るべきところ、ぐらいの先生が、今月、鬼籍に入られた。ご高名はあえてここに記さない。拙著(オレンジ色のほう)発刊当時、サインしてほしいとおっしゃり、丁重に繰り返しおことわりしたのだががんとして聞き入れてくださらず、結局サインもうしあげたことがあった。この先生は、手放しで部員両名を評価してくださった。どこをご覧になったかわからないが、有難いことだった。そういう方々が、どんどんこの世を去ってゆかれ、もう、そんな、昭和ならではかもしれない、度量をお持ちの先生方は、もう、この世でお目にかかることはないのだと思い知る。〔文責・きか〕








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