違いのこと その1
1月31日、扇坂の南向きの斜面で。オオイヌノフグリの青い花もぽつぽつ咲いていた。
下は、前日30日の片平の一角。
たった一日の差というより、その場所の問題。この季節は「陰陽」の説明によさそうな写真が撮れないか考えながら歩いている。
「違い」は、上記二枚の写真のようには明らかでないこともある。
さて、それはコロナ禍前のことだ。
知人と一緒に昼食を食べていた。隣の席の方々の会話が耳に入り、知人の一人が話題を「そういえば」と話題をそちらにシフトした。私も違和感はなかった。だが知人の一人が「なんで話題が変わったの?」と言った。小声で「そちらがわの卓でそんな話をしていたのが耳に入ったから」と答えると、話題を変えた側も頷いている。「ええっ?…聞こえてるの?聞いてるの?」と聞かれて、困った。耳に入ってきた、というのが、正しいのであって、わざわざ聞こうと思って聞いているのではない。
これは一例なのだが、何となく周囲の情報が五官に入ってくる人と、そうでない人がいるようだ。何で見たか失念したが、「捨て目がきく」(本来見ようと思っていなかった対象まで見ている)ということばがあるらしいのだが、「捨て五官がはたらいている」ような人と、そうでない人がいるのである。
「五官野(などということばがあるかどうかは知らないが「視野」では狭すぎるため)」に入ってくる情報が各人異なる。
「聞こえていない人」に「聞こえるようになれ」も、
「耳に入ってしまう人」に「耳に入らないようになれ」も、
たぶん、不可能、だ。
自分と違う感覚の人が、当然、いる。それはいいとして、問題は、お互いに、お互いの感覚の在り方を想像するのが難しいということだ。私は、自分とは異なる認識の人がいることは前提として、その詳細については自分のこととして感知するのは難しい、という認識はある、というか、認識があるというところでとどまっている、と言わなければならないだろう。こうかな、と思うことはあるが、わかったという論証はできないし、正解はたぶん、ない。年をとるにしたがってわからなくなった。若い時のほうがわかった気持ちになっていられた。
わかる側・わからない側、両者いずれにも、想像したり訓練したりすれば、相手方のことが少しわかったりできたりする(と言っていいのか?)ようになる場合と、まったく不可能な人が存在するようだ。
前提を認識し、難しいことも認識したうえで、どうしたらいいのかは、たぶん「論理の力に頼るしかない。」…この「論理の力に頼るしかない」とは、大学時代の知人の言葉だ。だが、そこそこ売れている新書などでは「論理がわかる」はまた別の能力で、わかる人は全体の3割とかなんとか、のたまう。どこまで行ってもわからない人はわからない、で致し方ないかもしれない。まあいろいろと困るけれども。〔文責・きか〕
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