いろんな人が
服を買わなければならない。が、できれば買いたくない。
そもそも、考えなくてすむなら考えたくない。
というと、驚く服好きな方もおられるだろう。
芸人で小説家の方(どちらを先にするべきか不明)で、服好きで有名な方がおられて、
「服に興味がないと言っている人は、たいていこざっぱりとした恰好をしているので、興味がないというのではないと思う」と言っておられたことがある。
甘い。
きっとその方の周辺に私のような者がいないのだ、と思う。
だがどうも、少数派は自分のほうらしい。
なぜなのか、考えた。
答えは単純。服装となると、「着心地の快不快」が第一義になるからである。
何度か水を通して、少々よれてきたほうが、着心地は、いい(あくまで個人の感想です)。
あ、先日、片平のATMの前で傘がキレイだとほめてくださった見知らぬ方、有難うございます。気に入っているので嬉しいです。
それと、何かしている間は自分を視野に入れたくない。というか入れる余裕がない。
ある会に参加したとき、叔母にもらったペンダントを着けた。その日はときどき(無くしていないか)触っていた。一定の「格」のものが必要な会合と判断したから身に着けたのだが、何か変な緊張感があって、そういう気遣いを自分に関してできるだけしたくない、というか、自分をかまうような余裕がないのである。
世の中そういうものかと思って見ている「ママ〇タ」に、「毎日同じ服を着てスッピンな同僚がいたら、気になる」というコメントがあったのでぎょっとした。そこそこ、いいねがついていた。いろんな人がいるんです、というところで勘弁して頂きたいところである。〔文責・きか〕
3月末の定点付近
大覚寺展行ってきました
3月10日から数日、東京。
10日の上京のさい、新幹線が止まってしまい、本来ならば予定より1時間前に発車したはずの、ようやく動き出したそれに乗り、デッキで立ち続けてようやく予定に間に合った。
このダメージが思ったより大きく、2日間はほぼ午前中ダウン状態。
明日早朝には東京を離れるという日、思い立って上野へ。
板橋の「エド・イン・ブラック」はちょっと遠いので諦めた。
写真を撮ってよい箇所で撮ったもの。
リアルタイム検索で、「うさぎ」がいることは知っていた。気に入った、とつぶやいておられた方がおられたから、それは見ようと思っていた。予想にたがわず、かわいー、と、声に出て、そこにおられた見知らぬ方と、盛り上がった。
下はうさぎと同じ部屋。ガラスに反射して、朝イチでもそこそこ観覧する方がおられるのがわかる。刀剣は、家訓?により近寄ってはならないことになっている。
実は、第1室の「藍紙・最勝王経」でパンチをくらって、あとはフラフラだったのだ。
こう筆写されていた、と、現物を見ると、やはり、実感として違う。
下は、鴛鴦の地味なほうが抜けてしまったのが残念。
堪能。点数が多すぎず頃合いなのもよかったかも。
仙台ではまだ咲いていない紅梅を見ながら、出口へ。
〔文責・きか〕
蝶を見に行く
このところ乾燥しているせいか、低い垣根のように一種の街路樹として植えられているヤブツバキも、一本植えで大きく育ったヤブツバキも、あまり花色が(葉の色も)よくない。
サイズが大きくなるのでチラシを載せられないが、2月15日土曜、カメイ美術館にチョウの絵葉書を見に行った。展示期間は翌日まで。昨年11月からやっていたそうだが、気が付くのが遅れた。展示タイトルが絵葉書なのだが、実際はマキシマムカード。チョウの種類ごとに分けて展示されていて、見ごたえがあった。
知人が「歴史なんかやっている者(の)は、異界にとらわれて何十年、みたいのが多い」と言っていたが、たしかにその傾向がある、人も、いる。今の世の中ってこんな、を知るのには、私の場合は、散髪屋(以前、プラマイ2割の法則という哲学を持っていると書いた)とそこに置いてある雑誌と、『きの何』と、「ママ〇タ」あたりである。
普通?に暮らしていれば知っているかもしれない単語「クーファン」とか「ジレ」とか、「ママ〇タ」で見てわからなかったので、そこから検索して知った単語も多い。
『きの何』でも検索することがある。「イマジナリー彼氏」などという単語は検索した。
「オサム先生」の奥さん(後ろ姿しか出てこないかた)と、姑にあたる「大先生」との仲があまりよくはない件。「わたしのせいだっておっしゃるんですか?」というアレ(このセリフでわかる人はわかるはず)がずっとひっかかっている。「ごらんのとおり私はちっとも太ってません。そもそもご自分の息子さんなんですからご自分でおっしゃったらいかがですか(こちらのセリフはたぶんちょっと、原文と違う。手元にないので確認できない)」。最初読んだときには違和感しかなかったが、数年たっていま読み直してみるとそれほど違和感はない。「ママ〇タ」のご薫陶かもしれない。「オサム先生」が何かの病気を発症した場合、困るのはあなたではないか、夫婦であれば看護の義務が生じるはず、夫の健康に気をつけても長い目で見てあなたのご損にはなりませんよ、という見方はできる。だが、「そもそも私の用意した食事で過ごしていればこうならなかったわけだから、その病気は自己責任。自分でなんとかするべき。私に看護するつもりはない。離婚」が言える奥さんであれば、そんな心配は無用である。そういうのが「しっかりした人」かもしれないと思う。ただ奥さん、リンゴはもったいないぞ。
ヒトの(この場合のヒトは自分)心は揺れ動くので、『きの何』の現時点での最終巻(23巻)を神巻とみて手放さずに置いておこうと思うとき、処分しようかと思うとき、どちらもある。でもさ、あの宴に、「大先生」も「オサム先生」も「シノさん」も「ヤマダさん(このかた、とても好き)」も呼ばれてないんだよね。シロさんのお宅のかつての状態を考えれば、「ママ〇タ」の「カヲ〇ーン」さんの描いたご両親は、ええ話やった、と思う。
私は、「こんなの(夫のこと)と結婚してくれて感謝」という態度を終始崩すことのなかった義実家と、夫が妻の仕事をたいしたことないとは言わないことと、このふたつには恵まれた、と思う。「ママ〇タ」を見ると家のことは何にもしないわからないで、仕事「も」している奥さんを見下す夫がこんなに多いのかと怖くなるほどだ。
何の話をしていたのだろう。いずれある日、春を待ちながら、絵葉書の蝶を見に行ってきた、ということだ。〔文責・きか〕