プーシャン家の日常

つぼマニア兼脉オタクと、医学史中心中国学マニアの生活感なさすぎな日々

或いは自分のトリセツ

2024.01.31 23:29:23


ここのところ花を撮っていなかったので、ツバキ。東北大学片平キャンパス北門近く。

以前、「一切合切凡庸」という歌詞が「定型発達」という言葉を思い出させる、と書いた。ここ数年、自分のことをそう思う。身長とか体重とか顔の大きさとか、いわゆる日本人の平均とかさらには同年代の平均を調べると、ほぼそんなところなのだ。だから影がうすいのかもしれない。

血液検査をしても、基準値内におさまっている。若いころはよくHbA1cが3点いくらだったのだが、それも昨今は下限だがギリギリで基準値である。素人考えではおそらく少なくとも3代続く遺伝で、けっこうな速さで糖分を消費するらしい。額のあたりが寒くなってくると危険である。一度震えがきたことがある。あの雰囲気は二度とイヤである。糖分を摂取すればいいというものではない。うまく計らないと胃もたれする。その頃合いがわかるまで、思いのほか時間がかかってしまった。

下はいつもより2週間は早い紅梅。

2月18日日曜午前、明るい日差しのなか、キジバトの鳴き声を聞いた。〔文責・きか〕


テーマ:老いと終活/ コメント(0)/

ページの先頭へ▲

なつすいせん

2022.08.15 15:09:08


いつも歩く道の夏スイセン。四辻なのですが、花の鉢植えが置いてあるなど、近くにお住まいの方が気遣いしておられる感じの道です。

ナツスイセンという名前は、子供心に腑に落ちず、「ナツユリ?だと、もっとたくさん該当者があるか…なら仕方ないか。なんとなく清涼感は近いかな」と考えていました。

蛇足。この花をなぜか「リコリス」と覚えていました。二年ほど前から、たとえば「リコリス」なら「リコリス」という言葉の、自分の人生における初出みたいのを思い出せないことが出現し、増えてきました。なぜ覚えているかわからないので、初めに思い出せないと感じた時には不安でした。

なぜ動くか原理が不明な点も多いPCでも使っているので(我ながらよくわからないたとえ)、どこで得た知識かわからないものも使ってゆかないといけないはずで、それでも不安を感じていては先に進まない場合もあるので、今はとにかく不安を振り払います。〔文責・きか〕

テーマ:老いと終活/ コメント(0)/

ページの先頭へ▲

片づかない漫画のはなし

2022.05.14 16:50:43


昨年6月16日、「刈られました」定点付近。カラスが二羽います。次に「刈られました」10月にもよく似た写真がありました。

今日、この季節カラスは子育て中で気がたっているので注意、と、何かで読みました。

プーシャン家は、3月の地震で、これは本気で書籍を減らさないと命の危険があると判断しました。
そもそも毎日のように、積んだ書籍で足の指をひっかけたりスネにキズをつけたりしているのでは(仕事にならないわけではないが)日常生活に支障があると言わざるを得ません。

漫画はある程度処分です。
見返すと、多分に今の気分によるのでしょうが、意外なものが要らないと思ったり、逆に手放せないと思ったりします。
こんな一節のある漫画は残すことにします。

「―滋さんは
ちゃんとご飯
食べたかしら
今日はひとりで
食べるのかしら
―だめね 私
ずいぶんと
さみしがりやに
なったみたい
昔はもっと
辛いことも
苦いこともあったのに
幸せがこんなにも
静かに
静かに
二人の上に降りつもって
不思議ね
滋さん
さみしくて
早く会いたいわ
―ああ 
いつか
あの人を失う日がきたら
私は生きていけるかしら
いつか
私を失っても
あの人は
生きて
いけるかしら
―ああ
早く
あの人の隣へ
帰りたいわ」(緑川ゆき『夏目友人帳』15巻、初版2013年1月、「特別編・塔子と滋」より)

この記事の写真がカラスなのはこの編にちなみます。

私ならば、そこでページをめくるので、最後だけ「あなたの隣へ」にしかねません。そこだけ、二人称。
ただ、二人称としては「滋さん」が出てきており、塔子さんは、二人称としては「滋さん」なので、「あなた」は「ない」のです。「滋さんの隣へ」ではダメなので、これがベストなのでしょう。
呼びかけとしての「滋さん」と、塔子さんの心の中で描写されている時の「あの人」。

この漫画は、最初こそ『百鬼夜行抄』のエピゴーネンなような気がしていましたが、「主人公のビルトゥングスロマン」の要素があり、またそれだけでは片づけられない何かがあって、たぶん処分できないと思ったことです。〔文責・きか〕






テーマ:老いと終活/ コメント(0)/

ページの先頭へ▲

メタセコイア

2022.05.02 08:55:36


メタセコイアの実が一面に散り敷く東北大学片平北門付近。4月16日。雨の翌日。

そういえば以前もこんなことが。20年4月19日。大風の翌日。

新しい一年を始めるには、昨年の実や葉は落とさないといけない、ということかもしれません。

そこからの、連想。「二月の花」でなく「霜葉」になって思うこと。

子供の頃、午睡から覚めた直後、家の中でも別の場所のように見えて不安になることがありました。家族のだれかを見つけるまで、半泣きで探すこともありました。
認知症の(当事者側からの見方の)本を読んでいて、それを思い出しました。
いつもと違う(と感じる)場所にいると感じて、不安で泣きながら探して、ひとがいても、それが家族と認識できなかったら?
そりゃ怖いわな、と思うのです。

何らかの理由で、普段記号化して格納したりスルーしたり処理したりしているものの記号化ができず(できるまで)右往左往することは、二月の花でもあるのかもしれません。ただ、右往左往でエネルギーを使った分だけできるようにな(って定着す)るとは限らず、労力との等価交換がうまくいかなくなるのが(言い換えれば、こんなに払ってこんだけ?とか、え~初めからまた?とかになるのが)年齢ということかとも思います。〔文責・きか〕







テーマ:老いと終活/ コメント(0)/

ページの先頭へ▲

ウメ

2022.04.08 05:00:00


右が白梅で、左がちょっとピンクがかったウメ。

「あの僕つねづね思うんですが」、「添い遂げる」とは難しいものなのだと思う。基本的には他人同士が、日々の生活の中に、自己概念の一部として(かどうかは個人差があるだろうがそう言っておく)、ある種の目的のために、行動する時にせよ決定するにせよ、お互いが他人を含め続けることだと思うからだ。

これを書いた4月8日は、13年前のその朝、プーシャン家の片方が手術を終えた日だ。その時に、双方が10歳は歳をとった。今はあらたな注意も必要とするようにはなったが、それでもなんとか生きてゆく。〔文責・きか〕

テーマ:老いと終活/ コメント(0)/

ページの先頭へ▲