プーシャン家の日常

つぼマニア兼脉オタクと、医学史中心中国学マニアの生活感なさすぎな日々

違いのこと その3

2023.02.15 14:25:31

今となっては一昨年の冬、とても気が楽になるできごとがあった。
「自分だけではない」と感じたこと、である。

市販のお菓子で、半生みたいなケーキっぽいとかチョココーティングされているとかの個包装のお菓子の箱を裏返し、「材料」を確認すると「酒精」が入っていることがある。たぶん保存のためだ。1%以下だと表示の義務はないらしいので、安心していて「やられた」と思うこともあった。羹に懲りたので、その手のお菓子は買わなくなった。これを知らずに食べて(具合が悪くなり)半日から一日棒にふる、という人が、自分以外にもいたことが判明したのだ。

自分と同じ程度にまで弱い人がいるのに驚いたが、自分だけではなかったとわかって、初対面の方ながら「同志」とまで呼びたくなった。普通にお菓子売り場にあるのだから、お子さんでも食べても問題のない向きもおられるのだとは思うが、そうした「普通~強い」方々の「プラマイ2割」の外側に、それぐらいアルコールに弱い人もいる、ということである。

「そうは思わない人もいるから、~~のがルールだ」、古すぎてさすがに文言があいまいな、『シャンペンシャワー』(かわみなみ)の一節。その前が「アドルには」「外れてもらう」、その後が「ここでやることは一つなんだ」…「彼いっしょうけんめい(熱心に?だったか)やってるようですよ今までと変わりなく」…だったかな?何巻かは忘れたが…こういう漫画の一節を、目の前に漫画本があってそれをめくるように記憶を反芻することがある。「余計なことまで覚えていると、新しいことが入ってこないから早くボケる」と忠告されたこともあるが、覚えるものは覚えるのであって、自分でコントロールが完全に可能なわけでもない。むしろ、覚えようとするとすごく時間がかかることもしばしばだ。ただ、昔は情報量の総体が少なかったので、漫画はよく覚えたのだ、とは思う。今は…「お姉さん、見える人ですか?」「…えっ…と…」「秘密ね」(『黄泉のツガイ』)と、『スパあんこうの胃袋』は、めくることができる…。〔文責・きか〕

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違いのこと その2

2023.02.15 13:43:19


くるくると連続する波がしらのような雲にあこがれていた。それっぽいものが見えて小躍りしたが、見る間にそしてスマホを取ってきた間にくずれてしまったので、こんな写真になった。きれいな夕暮れである。

お世話になっている美容院の方々が「プラマイ2割の法則」という哲学を持っておられる。一時期、「年のせいか?髪の量が変わった」ことがものすごく気になって、散髪されながら話題にした。その時に言われた言葉である。彼女らにはこれに限らずよく説教されるのだが、「たいていの人は、自分の髪の量からプラスマイナス2割までしか想像できない」、「だがプロだとその2割の外側も知っている」のだそうで、「データの蓄積が(素人とプロでは)違う」ということかもしれない。

ちょっと前にその当時のことをあらためて聞いてみたところ、「なんで突然気になりだしたかな、季節柄かな」と言いあっていたそうである。

この「プラマイ2割」は何となく正しい気がする。以下、正しくは2割ではないのだが、たぶん「100点」とれる人は、「80点」の想像がせいぜいだ。「80点」だと、及第点の範囲が、視野に入る。「70点」だと「落第」の範囲までわかるだろう。「60点」だと「100点」は見えない。想像力というのはたぶん、その程度なのだと思っておくといいような気もする。〔文責・きか〕

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違いのこと その1

2023.02.15 11:20:59


1月31日、扇坂の南向きの斜面で。オオイヌノフグリの青い花もぽつぽつ咲いていた。
下は、前日30日の片平の一角。

たった一日の差というより、その場所の問題。この季節は「陰陽」の説明によさそうな写真が撮れないか考えながら歩いている。

「違い」は、上記二枚の写真のようには明らかでないこともある。

さて、それはコロナ禍前のことだ。
知人と一緒に昼食を食べていた。隣の席の方々の会話が耳に入り、知人の一人が話題を「そういえば」と話題をそちらにシフトした。私も違和感はなかった。だが知人の一人が「なんで話題が変わったの?」と言った。小声で「そちらがわの卓でそんな話をしていたのが耳に入ったから」と答えると、話題を変えた側も頷いている。「ええっ?…聞こえてるの?聞いてるの?」と聞かれて、困った。耳に入ってきた、というのが、正しいのであって、わざわざ聞こうと思って聞いているのではない。

これは一例なのだが、何となく周囲の情報が五官に入ってくる人と、そうでない人がいるようだ。何で見たか失念したが、「捨て目がきく」(本来見ようと思っていなかった対象まで見ている)ということばがあるらしいのだが、「捨て五官がはたらいている」ような人と、そうでない人がいるのである。

「五官野(などということばがあるかどうかは知らないが「視野」では狭すぎるため)」に入ってくる情報が各人異なる。

「聞こえていない人」に「聞こえるようになれ」も、
「耳に入ってしまう人」に「耳に入らないようになれ」も、
たぶん、不可能、だ。

自分と違う感覚の人が、当然、いる。それはいいとして、問題は、お互いに、お互いの感覚の在り方を想像するのが難しいということだ。私は、自分とは異なる認識の人がいることは前提として、その詳細については自分のこととして感知するのは難しい、という認識はある、というか、認識があるというところでとどまっている、と言わなければならないだろう。こうかな、と思うことはあるが、わかったという論証はできないし、正解はたぶん、ない。年をとるにしたがってわからなくなった。若い時のほうがわかった気持ちになっていられた。

わかる側・わからない側、両者いずれにも、想像したり訓練したりすれば、相手方のことが少しわかったりできたりする(と言っていいのか?)ようになる場合と、まったく不可能な人が存在するようだ。

前提を認識し、難しいことも認識したうえで、どうしたらいいのかは、たぶん「論理の力に頼るしかない。」…この「論理の力に頼るしかない」とは、大学時代の知人の言葉だ。だが、そこそこ売れている新書などでは「論理がわかる」はまた別の能力で、わかる人は全体の3割とかなんとか、のたまう。どこまで行ってもわからない人はわからない、で致し方ないかもしれない。まあいろいろと困るけれども。〔文責・きか〕

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『チ。』の完結、研究or学問は女の脳をしているか

2022.07.18 08:46:58


定点付近のサクラの南側(サクラは左)。右側に生い茂っているのは藤棚で、サクラを侵食しているので今のうちに何とかしたほうよいのに、と昨年秋に書いた。手を入れないと、サクラにもフジにもよくないと思う。今年は7月になって、フジの花房がわずかについた。今年の花期5月は、花が少なかったのも、今回花をつけたのも、天候不順のせいかもしれない。

『チ。』が8巻で完結してしまった。ヨレンタさんの悔しさから目が離せぬまま読み続け、ドゥラカさんは生き残ってくれるのではないかという儚い期待もかなわず、1543年へと続く道を示して終了。途中から、二人の女の子に肩入れしている自分に気づいて驚いた。

…たぶんそれは男女差のみではない。何が差別の基準になるかは時代によっても人によっても違う。一度は差し出した名刺を引っ込めてさも時間を損したと言わんばかりにあいさつもなく踵を返す方とも一定数お目にかかった。そういう方々にとっては、私は研究者でも学者でもないのだろう。社会的な身分によって(?)私ができて興味があって、その方々ができないこと・考えていないことを指摘しても「なかったこと・存在しないもの」にされてしまうのはおかしいと、ずっと思ってきた。普段は顕在化しないそんな憤りを、ヨレンタさんとドゥラカさんが端的に呼び起こすのだと思う。

 そもそも「女脳」「男脳」という境はないだろうから、自分の一部にしかすぎないものを修飾語として用い「女の脳をした学問・研究」と表現することは、間違いであると思う。どんな人にとっても「自分の脳と顔をした学問・研究」ができるのがいい。そしてやはり、自分のすることは「手仕事の顔」をしているようでありたい。その出来が「映える」ものでなかったとしても。〔文責・きか〕


【追記】7月23日。フジが刈られました。

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体系化ということ

2022.03.20 19:09:42

どなたかがつぶやいておられたことに、「その分野を体系的に学んだ専門家に、断片的な知識のみで意見を言う方の気がしれない」というのがあった。医学と歴史の分野に多く、物理ではあまり見ない現象だとも…とすると、つぶやかれたのは物理関係の方だったのだろう。

何年かまえの数年間、たぶん年齢的に体調がコンスタントに悪かった。ある文献を「そうは読めない。その言葉はそういうふうには使われない」と学生さん(一度は社会に出られた方)に言ったところ、「他の文献も読んでいなければわからないなどというのは恣意的であって、学問ではない」と言われた。ちょっと驚いたが、反論する気力がわかなかった。どこから反論すればわかっていただけるのか、今でもわからない。

村上陽一郎氏によれば、「科学史」は1970年代から「文化人類学化」したのだという。だが、「文化人類学化」を喜ばない方も(専門家でない方に)いる気がする。わかりやすい評価につながらないので煮え切らない論旨になるかもしれないが、わからなくても異文化の存在を知ってはおきたい。それが体系化につながる気がするからだ。〔文責・きか〕

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